夢無きユメを見る人々
1/
「あぁ、クソさみぃ・・・」
見慣れた町並みが、今日は少し薄暗い。
立ちふさがるような高い建物の間から見える空はあます所なく、厚い雲におおわれていた。
ここ2、3日は太陽を見ていないような気がする。それもあってか、急激に気温が下がり、今ではコート無しでは外に出られそうにない程寒い。いそいで引っ張り出したマフラーも上着も、まだ少し押し入れ臭かった。
赤々と町並みを明るく彩っていた紅葉も一つも残らず散り、木々は裸。
自らはコートとマフラーを首に巻き、あてもなく歩き回る。
頬は冬の外気に赤く硬直し、鼻の先が痛み出した。
見あげる空は面白くないほどの灰色。空も自分もくたびれた感じ。
そんなくたびれた空からは今、真っ白な雪がパラパラと落ちてきていた。
しかし、雪は積もる事はなく、道路に触れて溶けてしまう。
そういえば、ここらに降り注ぐ雪は排気ガスや有機物質をふくんでいるため、東北の雪と比べると白くないようだ。限りなく白に近いけど、白色じゃないオフ・ホワイトカラー。
でも、東北の雪なんか見た事がないから、オレには真っ白にしか見えないのだけど。
・・・東北出身の人がこの雪を見たら、“白い”って言うのだろうか?
まぁ、そんな事どうでもいいか。
別にやることもないから、他愛のない思考に埋没する。
暖房がぶっ壊れている借家にいるよりも、厚着して歩き回る方が体は温かい。
そのことに気づいてから、借家で過ごす時間がずいぶんと減った。
・・・あの一人では寂しくて、妙に広く感じる部屋にいると、色々と考えてしまう。辛い気分になってしまうのがほとんどだから、こうして歩き回っている。
その方が後先考えずにすむし、ずいぶんと気持ちはラクだ。
「…………」
気づけば、今年もそろそろ終末。この季節がやってきた。
少々気が早いような気もするが、
周囲はクリスマスムード一色。
色とりどりの装飾のランプ。
赤と緑のコントラスト。
見渡すとあたりはカップルばかり。
互いに寄り添い、腕を絡め、体温を感じあい、幸せに談笑する。俺も経験したことがあるから分かる。たしかにアレは温かいものだった。隣にいるだけで幸せな気分になれたさ。でも気をつけろ。何がどう転ぶかなんてわからないんだからよ。
そう、心の中で目の前を歩く若い二人組に忠告していた。
「…なにやってんだか」
目の前のカップルに幸せだったことの自分自身を重ねようとしている俺がいて、思わずマフラーの中で失笑がこぼれた。
同時に、ずいぶんと未練がましい自分に、少し呆れる。
誰にも気づかれないような小さな溜息をついたときだ。
ふと、道路の先に、サンタや赤鼻のトナカイの衣裳を着たティッシュ配りがいるのを見た。
全身モコモコしたトナカイの衣裳は、別にいいとして。
サンタのあの妙に丈の短いスカートはいかがなものか。
実に、寒そうだ。
…女サンタも大変な時代だ。
足が白く細い、美脚なサンタクロース達に目を奪われつつ立ち止まる。
すぐ目の前にはクリスマスカラーの自動販売機。
尻ポケットからサイフを取り出し、開くが――全財産114円。
……ずいぶんと風が冷たく感じられた。俺の懐、寒っ。
缶コーヒー一本さえ買えやしない。
どこかで安い缶ジュースを買うにも、ワザワザ探すのが面倒臭い。
なんだか色々と疲れてしまって、もう一度あたりを見回した。
もう、座り込んでしまえ。
近くにあった花壇の縁に腰かけ、かじかんで真っ赤になった手に息を吹きかけて擦る。
さて、今のはただの吐息か、はたまた溜息か。
無職、いわゆるフリーター。
働いたら負けなんて思っていない。
ニートの言葉だが、まぁ、収入がないのでは似たようなものだろう。
働いても・・・長続きがしないのが俺の欠点だ。
大抵は、良いとこまではいく。軌道に乗り始めたころとか、仕事になれたころ俺は、なにかに冷めるようにして仕事を辞めるのだ。
・・・「熱意がない」なんて言われたっけ。
・・・・・・誰だったかな。
あぁ、思い出した。専校の教員か。
まぁ、その通りだろう。
あのころはまだ学生だったし、何より馬鹿をやってられた。
でも、もう気づけば大人の一員だ。
“なにか違う。俺がしたいことじゃない。”なんて自分に言い訳をして、仕事をやめてきた俺。
一つ、はっきりしたことがあるとすれば。
俺は俺以外の人間を馬鹿にできるような人ではないという事だけだ。
あぁ、・・・・・・鼻水が。
ポケットの中を探すが、・・・ティッシュはない。
上着の袖で思わず鼻水を拭っていた。・・・ゲームセンターが近くにあったはずだ。そこで今日は暖をとろう。
さて、夜の予定も決まったことだし、重い腰をあげる。
「・・・・・・ん?」
たまたま目線を投げかけた先に、不自然な影を見た。
サンタとトナカイのティッシュ配りのなかに、何の変哲もない服装のティッシュク配りが混じっている。
ティッシュ一つでも業者同士の戦争なのに、普通の服装でいいのだろうか?
頭から足先まで黒一色で、他と比べるとずいぶんと大人しい色合いだ。
ありゃ、服の選択ミスじゃねぇか?・・・あぁ、他の人の倍は動いている。
なんだか、ちょこまかと動き回っているティッシュ配り。
パタパタとひらめくロングスカート。
難儀なもんだと少しだけ同情してしまった。
少し小柄の自分よりも幼く見える女の子だったからかもしれない。
でも、まぁ。
「がんばれ」
あの子には帰る家があるだろうし、部屋は暖房が効いているだろうし、家族がいて、皆で仲良くあたたかい料理でも食べるんだろう。
だから、きっと。
――同情されても、応援されても、ありがた迷惑だろう。
ゲームセンターへと歩みを進めるため、ティッシュ配りに背を向けた。
ティッシュを貰ってこようかなと考えている内に歩き出し、
すぐにそんな考えは歩いている内に忘れてしまった。
歩みを進める度に借家から離れてゆく。
でも、離れてゆくのは、借家だけではないだろう。
どんどん堕落の道を進んでいる。
別れ道は遥か後方。
灰色の雲に縁取られた奈落の空には何が待っているのだろう。
φ
“人生の終わり”を意識し始めたのはここ最近。
俺みたいなのが長生きできるとは到底思えず、その度に詩的なフレーズと共に死をむかえる自分を想像していた。
貯金は底をついて、現実は水のみで生活中。人間、水だけでしばらく生きていけるというのは本当らしい。しかも、空腹を覚えなくなってくるのも確認した。
しかし、延滞に延滞を重ねた水道代を払うことが出来ず、ついにこの前、借家の水道が止まった。
ガスも水道も止まり、残ったのはギリギリまで払い続けた電気だけ。家賃もずっと払ってないし、そろそろ追い出されるかも知れない。
もし、借家を追い出されたなら遠くに行こう。
人間がいない所に行って、足跡一つ無い雪原の中で、こんな雪が降る中で死にたい。
「・・・・・・ふぅー」
肩の雪をはたいて、最近の思考は実に詩的で末期的だと思った。
自動ドアをくぐると、頬に騒音と熱気を感じた。
チカチカと点滅するアーケード。人形が積み上げられたクレーンゲーム。
人の熱気と絶えることのない騒音に、少し気分が悪くなった。
でも、すぐにそれも気にならなくなる。
身も心も麻痺して鈍感になるからだ。
休憩場で腰を落ち着かせると、頭の中で、心についた“つまみ”をまわすイメージをする。すると、十分もたたない内に騒音も気にならなくなった。
人間にはなんて便利な機能がついているのだろう。
何にでも「慣れてしまえる」便利な機能。
でも、つかいすぎはいけないようだ。
どうも最近、普段から心身共に麻痺してしまっているような気がする。
機能のつかいすぎで、“ズレ”が生じてしまったのだろう。
ズレが生じてしまったなら、修理をしなくちゃいけない。
次に、身体の中をイメージする。
皮膚一枚めくる。
余分な肉を脇にどかす。
身体の奥底では薄い歯車が幾重にも重なり合って回っていた。
直し方は知っている。
まず、わき腹の歯車から。
次は右手にはまったネジ。
今度は左目に埋まったバネ。
最後に左胸の大きな歯車。・・・でも。
「ありゃぁ・・・」
修理屋の俺は舌を巻いた。
歯車のシャフトが折れて、カタカタとへんな音を立てて無理矢理に回っていた。
その歯車も所々がへこみ、歯もかけていた。
心身の麻痺もズレもこれが原因のようだ。
とてもじゃないけど、修理できない悲惨な惨状。
むむっ、とスパナ片手にうなる俺。まずはこうなってしまった原因の究明を。
そうしてスパナを放り投げた俺は、パソコンをどこからか取り出して、俺の頭に色とりどりのコードをつないだ。
俺のパソコンの操作にしたがい、過去の記憶が呼び起こされていく。
たくさんの窓が開いていき、やがては俺の眼前をうめつくしては、生き物のように動いては消えていった。
流し目で窓を眺め、邪魔な窓はまとめて消していく。
その作業を飽きることなく続けて、やっと・・・
「見つけた・・・」
問題の窓を発見した。
それはたくさんの窓に折り重なるようにして隠され、“Keep Out”
と書かれたテープでグルグル巻きにされていた。
その一つを残して他の窓を消す。
残されたテープでグルグル巻きの窓。
その黄色のテープを乱暴に引きちぎり、俺は俺の記憶の最奥に手を出した。
φ
別に、特別裕福だったわけじゃない。貧しいわけでもなかった。
ただ、親とは仲が悪く、例えるなら・・・そう。犬猿の仲。
顔をあわす度に喧嘩し、こんな家さっさと出て行きたいと常々思っていた。
本当に家出をして、しばらく帰らないこともしばしばあった。
お節介が好きな幼馴染がいた。小さな頃から後ろにくっついてきた。
いつも口うるさい奴だった。
当たり前のようにいつもそばにいて、煩わしいと思うことが多々あった。
親と喧嘩するたびに、親しげに近寄ってきては、わかったように説教をしてくるのだ。
不快だった。見知った奴に合うたびに、なんともいえないイライラが沸いてきた。
一人にしてほしかった。俺に関わらないでほしかった。皆、死んでしまえば良いと思ったこともあった。
人との繋がり、血の繋がり、そんなものから縁を切る思いで一人暮らしを始めた。
自分一人で何でもできると思った。思った通り、困らない程度に何でもできた。
俺は何でもできる。そう奢っていた時、彼女に出会った。
駅でひょんな事で知り合った女は綺麗な人だった。
髪が長くて、気さくで、ドッキリするような色っぽいしぐさをする女性。
その女性に何度か出会うたび、胸の中でなんとも言えない甘酸っぱい感覚が弾け、自分が彼女に惹かれているのがわかった。
どこかのチンチクリンな幼馴染とは世界が違う、大人の女性。
決心した俺は、思い切ってプロポースをした。彼女は笑って俺の心に答えてくれた。
その時の俺は本当に嬉しかったし、思い通りにならない事などないと本気で奢っていた。
・・・・・・でも、俺は大馬鹿者だった。
しだいに彼女と過ごす時間が増え、それにしたがって彼女への貢ぎ物が増えていった。
・・・・・・俺は気付かなかった。目の前の幸福を形にしたような彼女を手放さないように、逃げていかないように必死だった。
少し考えればわかるだろうに・・・。
専門学校卒業後、仕事の初月給で彼女の好きな物を買ってあげた。
専校一年で知り合い、その後ずっとよくして、よくされてきた俺は何も疑うこともせず、彼女だけを見て、彼女の声だけを聞き、彼女の欲しい物を買い続けた。
だから、馬鹿だというのに・・・。
一人暮らしを始めると、これまで払ったことのない代金を払わなくてはいけなくなる。
家賃、光熱費、水道代、電気代、その他色々。
どれもが、学生時代の俺にはまったく縁のなかった代物だ。
貯金がカラになってようやく、このままでは生計を立てていけない事に気付いた。
その事を彼女に話すと、彼女は手の平を返すようにして、俺の前から忽然と姿を消した。
気付いた時にはもう遅い。
気が付くのが遅すぎた。
本当に馬鹿だった。今、思い出して悔やんでも悔やみきれない。
でもさ。悔しさなんて小さいものでさ。
本当は、空腹なのもどうでもよくてさ。
金がないのも別に気にならなくてさ。
俺が一番こたえたのは。
マジで幸せだと思ったひと時が。
マジで嬉しいと思ったお前の笑顔が。
マジで楽しかった思い出が。
マジで愛したお前という存在が。
マジで全部嘘偽りの作り物だったで気付いたことなんだよ。
φ
「・・・・・・んぁ?」
いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
耳が慣れたはずの騒音が、今は少しだけ頭に響く。
息を吐いて、丸まった体をのばし、足を投げ出し、背もたれにもたれかかって休憩場のイスに座りなおした。
他に何人かいたが、どんなにだらしなく座っても、俺を咎める人はココにはいない。
・・・・・・・・あ。
そこで、コートの中でケータイが震えていることに気付いた。
「・・・まだつかえたんだコイツ」
電話代を支払う余裕なんてないんので、てっきりもうとまっていると思っていた。
「はい、苑咲ですが・・・」
などと、驚きが勝ってか、相手の名前を確認せずに通話に出ると・・・。
「あっ!やっとでた!やっほー涼時!」
電話はあのチンチクリンからだった。
普段はイラつくほどのやかましいしゃべり方も、今は少しだけ気だるいと感じるだけだった。
・・・もしかして俺、寂しいのか?
「・・・何?江那美」
少し大きめの溜息を吐いてみる。
「ナニ?ってつれないなぁ。あっ!溜息をつくと幸せが逃げちゃうよ!吸わなきゃホラ!吸ってから吐けば深呼吸〜」
うん、いつも通りにアホだ。何も変わってない。昔から相変わらずの“全力・ノーコン・ストライク・江那美”だった・
「懐かしいな・・・・・・何年ぶりだ?」
「何年って大袈裟な。夏の始まりに私が会いにそっちに行ったでしょう?」
あぁ、そうだった、そうだった。突然、転がり込んできたコイツを一日だけ泊めてやったことがあった。一人じゃ広い部屋もずいぶんと狭く感じたものだ。
朝、珍しく玄関のチャイムが鳴り起床。どうせ新聞の勧誘だろうと無視をしていると、一般的かつ規則的だったチャイムが連打に発展。
どこぞのガキの悪戯だゴラァ!っと、玄関の扉を勢いよく開けて意気消沈。ド派手なオレンジ色のトラベルバックを下げて、満面の笑みを浮かべた幼馴染が立っていた。
驚いた。二重の意味で驚いた。
一つ目は、コイツがなんでこんな所にいるのか。
二つ目は、・・・・・・うん。言わぬが花という事もある。
朝から町中を案内させられたり、昼はそのときに見つけたお祭りに参加させられたり。
林檎飴や綿飴を買わされて・・・・・・あっ、あとベッコウ飴と水飴も買わされたっけ。・・・あれ?なんだかアメ類ばかりせがまれたような気がするんですが。
「あぁ、そういえば、そうだった。一日だけだったよな、お前が俺の家にいたの」
夜まで屋台をめぐって、花火を見て、家に帰って江那美が買ってきた酒を飲んだ。
そして、翌日には彼女の姿はなかった。一瞬夢を見たのかと思ったくらいだ。だけど、置手紙とどうしようもない二日酔いがあったから・・・・・・夢じゃなかったと安堵できた。
「あの時はゴメンね。あまり長いこと居れなかったんだ。挨拶ぐらいしようと思ったんだけど、あまりにも気持ちよさそうに眠っていたから・・・。そのときの寝顔、撮っちゃった」
「ばっ!?お前、なにやってんだよ!やめろよ!?」
今でも鮮明に思い出せる。・・・なんだ。案外楽しい思い出じゃないか。
「ところで、何の用だよ?」
「あっそうそう。・・・・・・えと、そのー涼時が元気かな〜っと思って電話したんだよ」
「・・・・・・俺なら元気だよ?」しばしの沈黙の後、無意識でそう答えていた。
「本当?ご飯はちゃんと食べてる?」
・・・・・・昔から江那美は妙に勘が鋭かった。
「食べてるよ。もーここ最近は鍋料理しか食ってなくてさぁ。なんかいい献立とかない?」
と、俺はおどけて言った。咄嗟の口から出た出任せだった。
「へぇー鍋かぁ。そういえば、今年はまだ食べてないなぁ。私的にはアレ。キムチ鍋が好きだよ」
本当は俺だって鍋料理は食べていない。もし、食べるとしたら・・・・・・そう、やっぱりもつ鍋かな、なんて考えてみる。
だが、鍋の話題はそこで突然として終わってしまった。
珍しいことに江那美が押し黙ったのだ。
明るく、話題の絶えない彼女が沈黙し、俺はなんとも形容できない気まずさを覚える。
あのチンチクリンが黙るなんて珍しい。にしても、なんだこの気まずい空気は。
うんともすんとも言わないスピーカーを耳にあて、どのくらいそうしていただろうか。
本当は一分も満たない短い時間がとても長く感じられて、思わず口を開いたときだ。
「あのさ・・・・・・変な事、きいてもいいかな?」
電話ごしからそんな、今まで聴いた事がない遠慮勝ちな江那美の声が響いた。
そのただならぬ雰囲気に気まずい空気は不穏で居心地の悪いものに変わっていた。
「…なんだよ」
思わず、つっけんどんな言葉を返してしまう。
「あっ、いや。・・・その大したことじゃないよ。そっちに住んでる友達に聞いたんだけど――」
あっ、やばい。
そのときの俺は、直感的に何をきかれるか察していた。無意識下で誰かにきかれるのを恐れていたからかもしれない。
今、この瞬間。彼女の口を手で伸ばすだけで塞げたらどれだけいいか。
しかし、電話の距離ではそれは叶わない。
「涼時。付き合っていた彼女とどうしたの?」
――瞬間、全ての音がやんだ。いや、聞こえなくなった。
驚きよりも先に、怒りが念頭を埋め尽くした。
「私が押しかけたとき、そんな話はしてないよね。後で友達からきいて驚いたよ。でも、それでね――」
黙れ。それ以上きくな。
「――涼時、彼女と別れたって噂で聞いたから・・・私」
黙ってくれ。傷を触らないでくれ。
「ごめんね。きっと私のせいだよね。涼時は彼女のものなのに私、一日中連れ出して――」
お願いだから、本当に少しだけでいいから。
「私、昔から無神経で――」
「黙れ」
胸の中をぐるぐると回っていた熱いソレがついに、言葉になってあふれてしまった。
「俺、もうそういう同情めいた言葉とかいらねぇんだよ。飽き飽きしてるんだよ」
あぁ、胸からコールタールのような黒々とした感情があふれてゆくのを感じる。すでに感情は沸点を超えていて、体は凍りついて動けないでいた。必然、行き場のない黒い感情は全て江那美へと向いてしまう。言葉の刃をとどめることはできなかった。
「・・・りょう、じ?」
こんな所にまだ、俺を縛る“縁”ある。残留している繋がりがある。
それはなんて・・・
「どいつもコイツもウザいんだよ!皆して俺を嘲笑いやがって!お前だって俺を笑いものに――!」
いとおしいと同時に憎たらしいのだろう。
「俺を・・・俺をもう一人にしてくれ・・・」
そう、俺をもう一人にしてくれ。期待させないでくれ。もう、二度と。
あんなつらい思いはもう二度と・・・。
「・・・涼時、大丈夫?」
「――――ッ!」
何かにたえる震えた彼女の声。
あんなにも凶暴な感情のはけ口にされたのにもかかわらず、こちらを気遣う声。
震える声を必死に押し隠そうとする気丈な声。
その声に俺はたえきれず――
「もう俺に、かまうなっ!」
電話にそう怒号を浴びせ、通話を切っていた。
沸騰する思考の片隅でふと、電話越しで江那美が泣いていたようなきがしたのを思い出していた。
φ
携帯をポケットにしまい、ゲームセンターから出ると、雪がやんだ灰色の空がむかえてくれた。
うっすらと汗をかいていた体が冬の寒い風に吹かれ、体温が奪われる。
朝までゲーセンにいるつもりだったのに、途端に居心地が悪くなった。なぜだか、あのままあそこに居ると、江那美がやってくるような気がしたのだ。
そんなこと、絶対にありえないのに。ありえないのに、俺は背中を丸めて逃げるようにしてその場を後にした。
思わぬ人物に忘れたい過去を掘り起こされ、勝手に謝られた。
なんで俺は、あんなにも怒ったのだろう。
冷めてきた思考。少し江那美に悪いことをしたかな・・・。罪悪感を覚えた。
でも、きっと。
きっとこれで、俺は本当に独りになれた。
なれたのだ。と、そう思うことにした。
結局、もとの道を歩き借家へと戻ることにする。
夜も深まり、寒さも増していた。それにつれて、寂しさまで増していた。
指先もすぐに悴み、感覚が鈍くなる。
心もきっと、・・・鈍くなってゆく。
なんで、あんなにも怒ってしまったのだろう。今度は少し真剣に考える。
きっと、江那美には知られたくなかったんだ。
あいつには、あんな事・・・情けない事・・・知られたくなかった。
きっと、変に気をつかせてしまう。
きっと、同情させてしまう。彼女は俺のことを笑わないかもしれない。しかし、それ故だ。
・・・こんなモノはいらない。
なら、独りの方がいい。
独りなら傷つくことはないのだから。
見慣れた・・・とういか、さっきまでいた通り。
数時間前の自分が座っていた花壇にもう一度腰を下ろしていた。
吐く息は白く、通りの人通りは皆無に等しい。
ディッシュ配りの姿はなく、それだけで、なんだか通りが薄暗くなったような気がした。
クリスマスシーズンとはいえ、夜も深まれば静かになるものなんだな。
通りに一人。一人だけ。まるで、世界に一人取り残されたような気分になれた。
しかし、俺一人だけの通りに小さな足音が響いた。その音がやけに耳元で聞こえた。
思わず、足音のした方を見る。通りの向こう、照明の光がとどかない暗闇から足音が響いていた。
固唾を呑んで、暗くてよく見えない人影を目をこらして見る。その足音が少しずつ大きくなり、こちらに近づいてくるのがわかった。
照明の光がやっと人影へととどき、おもいのほか小柄な少女を照らす。
暗闇の中に溶け込むような上下黒の服装。その黒よりなお黒い髪と瞳。
まるで、月光さえ届かない真影の闇でできているのでは?と疑いたくなるほど。
だからだろう。服からのぞく指先の白さや寒さに上気した頬の赤さが印象的だった。
黒い少女はゆっくりと小さな足音を響かせながら、歩いてくる。
どこかで見たことがあるような気がして、凝視する。そこで、彼女が片手に下げているもので気付いた。
ティッシュ配りの女だ。
そうだと分かって俺は、なぜだろう。
なぜだかひどく、安心したんだ。
φ
ティッシュ配りの少女は、片手にティッシュが沢山つまったかごを下げ、俺のすぐ隣に腰を下ろした。
あまりに自然に座るものだから、俺は少し驚いた。もしかして、俺に気づいていないわけではあるまいな。
いや、単純に俺が眼中にないだけかもしれない。
それは、そう考えさせる程に自然で、落ち着いているのと同時に、どこか浮世離れしていた。
俺が空気と同じくらい存在感がないのかもしれない。根暗野郎のオーラが全身から滲み出ているからかも知れない。
いや、あれ・・・なんだか考えると考えるほど落ち込んでいくのはどうしてだろう・・・。
俺の頭の構造は呆れるくらい単純で、さっきまで悩んでいた江那美のことはどこへやら。隣の少女について本気に悩み出した。
「俺はきっと、社会のクズなんだ・・・・・・」
ついに行き着くことまで行き、不覚にも情けなくて涙が滲んできた。
女の子が隣に座るだけで泣く男。これどうよ?すげーダサいって。
鼻水までたれてきて、鼻をすすっていると、ティッシュ配りの少女が心配そうに眉をよせて無言でティッシュを渡してきた。
よかった。無視されているわけではないみたい。
「・・・あんがと」
見ず知らずの人に心配されている自分に内心呆れつつ、最近めっきり少なくなってきた他人の好意を素直に受け取る。
だが、そのティッシュを受け取るという一つの行動で、
「――貴方、私が見えるのですか」
まさか、俺の人生が一変するとは、
「は?」
“夢にまで”思っていなかった。
2/
なんだ、コイツ。
とりあえず俺は貰ったティッシュで鼻をかみ、目の前の少女を見据えた。
ティッシュ配りの少女は突然、変な事を言ったかと思うと、笑って誤魔化し、なし崩し的に食事を誘ってきた。
少しの間、拒否した方が良いと思ったが、あまりの空腹感に身体の方が我慢できず、首を縦に振っていた。どうやら、“空腹を感じない”のは上辺だけらしい。まったく、現金な身体だ。
そして、導かれるまま一軒のファーストフード店に連れられ、温かい物をご馳走されることになった。
見た目、俺よりも幼い少女が、慣れた動作でウェイトレスを呼ぶと自分の分の注文を取った。
すぐに俺の方を見て、どうぞと笑うので、咄嗟に温かい飲み物を頼んだ。
無難な選択だと思う。ここで、下手に注文をすると後先で面倒くさい事が起きたときに響く。そう柄にもなく頭を使った結果がコーンスープ一杯だった。
もともと警戒心が強い上、現状が現状だ。少女一人といえど、その後ろには怖ーいお兄さんとかが沢山いて、目をギラギラさせているに違いない・・・。
普段のありあまった力を頭に集中させて、フル活動。
様々な事を考えた。
でも実際は、ただそんな気がしただけ。
本当の所は・・・
「大丈夫ですか?顔が真っ赤ですよ?」
「・・・いや、大丈夫。ちょっと風邪気味なんだ」
自分で言ってから気がついた。体がずいぶんとダルい。
腰はソファに落ち込み、体がテーブルに倒れ込むのを肩肘を突っ張て必死におさえている・・・そんな状態だった。
あはは・・・風邪でも引いたかな。
薬なんか買うお金もないから、野垂れ死ぬかも。
「・・・シャレにならないけど、ありえそうだ」
「本当に大丈夫ですか?」
俺の小さな呟きは店内の騒音でかきけされたようだ。
ぼーっとする頭を総動員して、少女の顔を見る。相変わらず心配しているようだ。
心配させてはいけない。これ以上、誰かと関わっちゃいけない。
不要な縁が生まれる。関係ができる。体が縛られる。それじゃ、重くて死ねない。
「あぁ、大丈夫だ。で、話はなんだったか」
だから俺は人当たりの良い当たり障りのない笑みを浮かべた。
その実、スープがくるまで黙っていた俺だが、彼女は嫌そうな素振りを見せず、もう一度最初から説明してくれた。
「貴方には“ユメ”がありますか?」
「・・・・・・は?」
「叶えたいユメがありますか?」
「・・・・・・・・・」
突然意味が分からない。
彼女はなにか変な宗教なのだろうか?
“ユメを与えましょう”とか言ってるし。
それとも、新手の悪徳商売かなんか?
電波系のおかしな奴にでも捕まってしまったか。
はたまた、こういう遊びが流行しているのか。
それとも、やはり、悪徳商売か。
うまいこと言って、後でお金をふんだくる戦法か。
・・・さすがに俺はそこまで馬鹿ではない。
まったく、変な奴に捕まってしまったものだ。
帰らせてもらおう。
ほとんど彼女の話の内容を聞いていなかった。
右から左へと流れていく言葉の放流に時折受け止めたり、流したり、首を縦に振ったり、横に振ったりして適当に相槌をうっただけだった。
もう、何を考えていたかわからない程にとろけてしまった思考は、ただ“帰ろう”と繰り返していた。
「わかりましたか?」
少女の言葉に俺はうなずいた。はて、何の話をしていたんだろう。
「では後日、うかがいます。よろしいですか?」
何の話だったか思い出せぬまま、俺が首を縦にふることでその話は終わった。
話が終了したのを肌で感じると、少女の方には目もくれず、俺は席を立った。
間接が妙に痛んだ。店内の照明で目がくらんだ。
俺が席を立っても少女は立たなかった。それに気づかぬまま、店からでる。
ただ、車道脇を歩き、ガラス越しに店内を見回してみたが・・・。
その時にはもう、彼女の姿はなかった。
足取りは重く、頭も重い。空も重ければ、心も重かった。
俺たちは生きる度、世界と他人と交わる度に重くなる。
だから死ねない。その重りが邪魔だから。気になって気になって仕方がなくなる。重くて空にいけない。
それが神様のつくったルール。死ねなくなる呪縛。
顔が笑っていた。
最近の俺は詩的で末期的だ。
そう、笑っていた。
φ
それは、小さなざわめきだった。
まるで、鏡のような水面に水滴が一粒落ちるよう。
小さくできたはずの波紋は時間と共に徐々に大きくなり、ついには液面全体を揺らした。
小さなざわめきが、より大きな物を連れてくる。
最初にあの女の事を思い出した。
次に彼女は何だったのだろうとゆう疑問が生まれた。
そういえば、彼女と何か話をした。それが思い出せれば、判るかも知れない。
そして考え、思い出した。
彼女はティッシュ配りをしていた。そして俺を食事に誘い、話をした。
たしか・・・“貴方にはユメがあるか?”こんな感じの事をきかれた。
・・・俺の夢。今の俺には夢なんてない。じゃぁ、昔は?子供のころは?
何か夢みていたのは覚えている。だけど、どんな夢だったかは忘れてしまった。
忘れてしまった子供の頃の夢。
たかがそれだけの事。それだけの事なのに・・・。
きっとそうやって大切な物を一つずつ落として、気づかないふりをして前に進む。それが多くの人間の歩み方だ。しかたがない。だってそれはいらない物を沢山抱え込む事と同義だからだ。子供の頃に書いた落書きのような絵を高校生は大事にとっておくだろうか?
俺は大半は捨ててしまうと思う。懐かしさと小っ恥ずかしさを感じ、無知だった過去の自分を隠そうとするのだ。
しかし、それらを微塵にも思わず、ただ純粋に懐かしいという気持ちで絵を眺める、そんな人間を俺は知っている
そのまぶしい輝きも、人間性も。
俺はそいつに憧れた。しかし、自分との差を見せつけられて絶望し、今度はそいつを妬んだ。
・・・・・・もう、顔も見られないだろうけど。
いったい、そいつは今頃なにを・・・・・・。
どんな絵を描いているのだろう。
絵を描き続ける。・・・それが、そいつの夢だった。
夢・・・。
俺の夢は・・・。
あんなにも寝苦しかったのに、そいつの事を思い出すと、不思議と穏やかになれた。スッーと、まるで水面に吸い込まれるように深い眠りへと落ちていった。
3/
「・・・・・・んぁ?」
ちらかった部屋のまん中にしかれた布団の中で俺は眠っていた。
どうやって借家に戻ったのだろう。
たぶん、いつも通りの同じ道を歩いて帰ったのだろうけど。
何をしていたっけ?
それが思い出せなかったが、頭がずいぶんと痛かったので、すぐに考えるのをやめた。
なにか小刻みに振動する音で俺は完全に目が覚めた。
枕から少し離れたところで俺のケータイが震えていた。
・・・・・・少しの間、振動するケータイを眺め、手を伸ばしてケータイを手にとる。
――一瞬、絵を描くアイツの顔が思い浮かんだ。
意を決してケータイを開く。
『斎藤 江那美』
その名前を見て息をのんだ。
食い入るようにしてディスプレイの名前を凝視した後・・・
震えるケータイの通話を切った。
途端、沈黙するケータイ。重ねてケータイが鳴る気配はない。
そこで、俺はまるで何かから逃げるように上着をはおって外に出た。
借家を出た俺をむかえたのは陽光。
実に4日ぶりの太陽は、まぶしくて暑かった。
近くにある公園の水道で喉を潤している時、喉が痛くないことに気が付いた。
・・・風邪が治った。我ながら、驚くほどの生命力だ。
あっ、あと、家の鍵を閉め忘れたことに気が付いた。今更戻るのも面倒な上、盗まれて困るようなものもないので、そのままにしておくことにした。
公園を抜けて、人が込みあう駅沿いを歩く。
線路の脇をゆくあてもなく歩いた。
ただ、考え事をする事もなく歩いた。
ゆっくりと歩き続けた。
どれくらい歩いただろう。
何度か電車とすれ違ったり、追い抜かれたりを繰り返していると、どこか懐かしい通りにでた。
・・・ただ懐かしいだけで、いったい何が懐かしいのか思い当たらない。
だが、行くあてがない俺は線路沿いを外れて、その道を歩き出した。
「・・・懐かしいな」
見覚えのある道なりが続く道路。冬だからこそまだ生えていないが、道路隅に草花の面影をみつけることができた。
いったい、どうして懐かしいのか。
中々思いつかなくて悶々と悩んでいる時だ。
真新しいアパートの影に隠れるようにして、さびれた一軒の文房具店が建っているのに気づいた。
思わず足を止めて、目を見開く。
それで思い出した。頭に電撃が流れたかのようにハッキリと。
何が嬉しくてか、通いつめていた店。
懐かしくて、思わず店主の顔でも伺おうかと思ったが・・・やめた。
どうせ、むこうは俺のことなど覚えていない。
――そうに決まっている。
店にのびかけていた足を止め、歩き出す。
それよりも・・・。
この懐かしい道の正体がわかった。
なんで忘れていたんだろう。そっちの方が不思議だ。
・・・・・・この道は、来る日も来る日も飽きずに通った・・・
高校への通学路じゃないか・・・。
φ
そのまま誘われるようにして歩き、気づけば俺は高校の前にいた。久しぶりに見る校舎は綺麗に塗装され、体育館も綺麗に改装されていた。
それが何とも、時の流れをイヤでも感じさせ、取り残されたような寂しさを感じる。
休日だからだろう。生徒は部活動生ぐらいしか見えない。それでも何となく、校門をくぐり、校舎に入ろうとする。
すると、事務員に呼び止められた。
「卒業生です」
適当にしかし本当の事を言うと、事務員は名簿を指差して奧に引っ込んだ。
・・・名前を書けということらしい。
我ながら律儀に名前と学校に入る理由を書く。
苑咲 涼時・・・見学と。
名簿をざっと読み返してみたが、知っている名前は一つもなかった。
職員の下駄箱の横に立ち、しばし思慮した後。
土足で上がることにした。
廊下を歩き、階段をのぼる。
その間、何度となく懐かしい情景が目に浮かんだ。
思わず、立ち止まって目元を和ませてしまうほどだ。本当に、何も変わらない懐かしさがあった。
机が並ぶ教室を窓越しに眺め、一番上を目指して廊下を歩く。
少し息があがりながらも突き当たりの階段を二段とばしでのぼる。
階段がおわり、目の前にアルミの扉が現れる。
そのドアノブに手をかけ、開けようするが・・・。
開かない・・・。鍵がかけてあった。
一瞬、けり破ろうかとも思ったが、そんな元気も度胸も生憎と持ち合わせていない俺は、舌打ちをして一時撤退をしいられた。おぼつかない足取りで階段を下りると、溜息を吐く。気の抜けた感じで廊下の天井の向こう側を眺めていた。
しかし、俺はあきらめなかった。あきらめられなかった。
今度は少し早足で別の階段を上り、一つの教室に入る。
窓を開け、身を乗り出して校舎の壁から出たスペースの上におりた。
校庭の反対側なので、まず誰かにばれることはない。
一面に広がる青い空と、学校をグルリと囲む巨大ネットの一角が視界を占めていた。
俯瞰からの光景と、はるか彼方の地面に、惹きつけられそうになる。そんな自分に頭をふって、しっかりしろと頬を叩いた。
・・・ずいぶんと風が強く感じた。
机をつなげて並べたぐらいしか幅のない足場を歩く。
すると、斜め上に緑色をした。柵が見える。
壁に伝っている配管に足をかけ、柵に手をかけ、のぼる。
ずいぶんと久しぶりなので、少しだけてこずった後、無事に柵の向こうへおりる事ができた。
高校生のころは時々こうして授業をサボったもんだ。
そこは、さっきの扉の向こう。俺のお気に入りの屋上だった。
察しのいい人はわかるだろうが、さっきのドアの鍵の原因を作ったのはもちろん俺だ。その時のことを思い出し、笑みがこぼれる。
それにしても、・・・空がずいぶんと近く感じるな。
懐かしい屋上にいると、俺は高校生に逆戻りしてしまったような錯覚を覚える。
四方が柵と壁に囲まれた狭い空間。
もとは園芸部の活動場所だったが、今は空っぽの鉢植えが角で積み上げられ、ガランとしていた。
もう、活動していないようだ。同じ時間をすごしてきた同胞の消失。言葉に出来ない感情が胸中を渦巻いた。
校庭からのぼってくる土のにおい。学校特有のほこりっぽい匂い。その全てが懐かしい。
冬のつめたい風を頬で感じる。時の流れを肌で感じる。独りのさびしさを心で感じる。
俺はここが好きだった。
ここが俺の居場所だった。
ここには俺しかいない。
一人になれる。
俺だけの世界だった。
腰を下ろし、金網に背中をあずけ、息を吐いて白に近い青空を眺める。
・・・そこで、ケータイが震えた。
今度はディスプレイも見ずに通話にでる。
「――涼時!涼時!?今ドコ?ドコにいるの!?」
江那美はなぜか酷くあせっているような、緊迫した声音だった。
滑稽だと思った。なんでお前、そんなに慌ててんだよ。
俺はこんなにも穏やかなのに・・・。 そう言ってやりたかった。
言いたい事は沢山あったようで、考えてみると案外なかった。言葉にならなかったのだ。
このまま、江那美の声を聞いて通話を切ろうと思った程だ。
しかし・・・・・・。
「・・・・・・ふっ」
懐かしい言い回しを思い出した。
「―――天国に一番近い所」
「えっ?」
そこでスピーカーが一際高い音を出した後、ブツッと音をたてて通話がきれた。
沈黙したケータイを見て、充電がきれたのだと悟った。
ケータイを閉じ、そこいらに適当に放り投げる。
一度だけカシャンとはね、少しだけ滑ってとまった。
最近ケータイに起こされることが多い気がする。
でも、それはもうない。
俺はケータイを取ることはないし、ケータイも鳴ったり震えたりすることはもうない。
俺はついに、最後の重荷を捨てたのだ。
今なら・・・・・・そう思って、白い青空を目に焼きつけ、瞼を閉じた。
もう、目を開けるつもりはなかった。
暖かい陽気が俺をつつみこんでくれる。
何も無い。俺のまわりには闇と空気だけ。
それ以外は何もいらない。何も必要ない。
あとは、眠りが俺をしかるべきところに送ってくれる・・・。
でも、最後に。
思わず笑みがこぼれた。
本当に俺は終わっている。末期的だ。どうしても独りだ。
・・・風が冷たいな、そう思った。
φ
「人との繋がりというものは、貴方が思っている程そう簡単に切れるものじゃないのよ」
「・・・お前はティッシュ配りの・・・」
「そう、私は“夢なきユメを見る夢の住人”。約束通り、貴方のユメを教えにきたわ」
「ちょ、ちょっと待てよ!なんだよソレ!?俺は死ねるんじゃないのか?・・・・・・そうだ。俺は今、ココで死ぬのがユメだ!なぁ、頼むよ!俺を殺してくれよ!」
「時々、そんな変わったユメを持つ人もいるわ。でも、貴方は違う。それと生憎、私は天使でも悪魔でも、ましてや死神でもないの。ユメを持てなかった者の成れの果て。“人にユメを与えたい”という歪んだユメを持った人間の抜け殻よ」
「待てよ。人間の抜け殻ってなんだよ。お前はなんなんだよ!」
「・・・・・・貴方、魔法って信じる?」
「はっ?」
「本当は、私が貴方にユメを思い出させてあげようと思ったけど
・・・必要ないみたい。私達は必要とされていないかのように世界は上手にまわっている・・・それが、この世界の魔法」
「おい、お前さっきから良く分からないことを――」
「おわかれね。ユメはいつかさめてしまうもの。人の繋がりは鎖というより、糸に近い。白くて細い、儚いもの」
「俺の話をきけよ!おいったら!」
「でも中には一際強く、確かな糸がある」
その時、音しかなかった世界に色と光が満ちた。
「――赤い糸。それも一つの魔法よ」
「えっ?」
色と光が満ちた世界で、彼女は驚くほど綺麗に笑った。
瞬間、さっきの色も光も嘘のように、暗闇と無音が俺を飲み込んだ。
音も色も光もない世界に俺は・・・。
沈んで・・・。
φ
誰かに呼ばれているような気がした。
体が小刻みに揺れている。
おかしいな・・・ケータイは止まったはずなんだけど。
「・・・・・・時。――ょう時!・・・・・・涼――」
うるせぇーなぁ。
少しはゆっくりと寝かせ――
「涼時!」
「へっ?」
目覚めたときにはもう遅い。何かにコートの襟首をつかまれたかと思うと、柵におもいっきり後頭部をうちつけられた。
「――ぃって!?なにしやがる!」
星やらなにやらがチラつく視界がとらえたのは――
「・・・涼時?」
「・・・・・・え・な・み?」
斎藤 江那美が拳を振り上げている姿だった・・・・・・って、えぇ!?
「土足で校舎に上がっちゃダメでしょ!」
――お前、なんでこんな所にいるんだよっ!て言う暇もなく、スパンッ!と今度は何かで殴られた。痛みのあまり声も出せない。
スリッパで叩かれたことを理解するのに、ずいぶんと時間がかかった。
「江那美!お前いきなり何――!」と、俺は口を開いたままかたまる。
俺は二の次が言えなかった。文句もグチも宙に浮いてしまう。
「涼時が、・・・・・・死んじゃうんじゃないかって。自殺しちゃうんじゃないかって・・・そればっかり私・・・考えて。ケンカして仲直りもしてないし、夏のお礼だってまだちゃんとしてない。私、すごく嫌で・・・本当に嫌で、止めなくちゃって思って、私・・・私・・・!」
――江那美は泣いていた。
ソレを見て、なぜだろう。俺は凄く不愉快な気分になった。
心配されているのはわかった。江那美が必死なのもわかった。
でも、泣いている江那美を見ていると、腹の底からドス黒いものがフツフツと沸いてくるのだ。
コイツ、なんで泣いてるの?なんでお前が泣いてるの?何でそこまで泣けんの?・・・何で・・・・・・。
「意味わかんねぇー。なんだよお前。いきなりあらわれて、ボロボロ泣きやがって。いったい何?」
江那美が唇をかんでうつむく。小さくなった彼女に、何も悪くない彼女に俺は・・・・・・
「お前に俺の何がわかるんだよ!」と、そんな怒号を浴びせていた。
やってしまった。・・・そんな後悔の念と、言いたい事を言った後の一種の爽快感が胸に満ちた。
気が付けば、空は薄暗く風はさらに冷たくなっていた。もう、どうにでもなれ。そう全がどうでも良くなったときだ。
ガンッ、と鈍く強い衝撃が頭の中を揺さぶった。それは、比喩でもなんでもない・・・
俺は今度こそ言葉がでなかった。左頬に熱と痛みが走る。彼女の振り切った右の拳が視界の端に映った。瞬間、俺はまるで、世界が逆転したように感じた。
「あんたこそ、あんたこそねぇ!」
これまで見た事がないほど、彼女は怒っていた。泣いていた。
否、苦しそうだった。
暴力のように今度はスリッパがとぶ。スリッパを握り、俺の頭といわず肩といわず、叩きまくる。
「涼時こそ私がどれだけ心配していたかわかる?どれだけ涼時のことを考えていたかわかる?涼時のことばっか考えて私・・・!・・・・・・そんなに野垂れ死にたいならねぇ」
――私ガ涼時ヲ殺シテヤル。
その押し殺した辛そうな声を聞いた俺は、心の片隅でそれは嫌だな・・・なんて思っていた。
彼女の細い指が俺の首へとのび、俺の首を―――。
――絞め・・・・・・なかった。
白く細い腕が、かわりのように首を抱いた。すぐ目の前に彼女の鎖骨があった。俺は何も言えなかった。あんなに用意していた罵りも、皮肉も、脅しも、文句も、・・・ついには一つもでてこない。
「死んじゃやだよ。どこにもいかないでよ涼時・・・」
彼女の体に手を伸ばす事も出来ず、俺は糸の切れた操り人形のようにただ、黙って江那美の体重を支える。
ゆっくりと目をつぶり、彼女が零す言葉に耳をかたむけた。
彼女の声。匂い。柔らかさ。温かさ。強さ。弱さ。
今更思い出した。これが、斎藤 江那美だ。
糸の切れた操り人形は彼女の鼓動の音をきいていた。
そして、小さな幸福を感じていた。
やっとわかった。彼女の涙の意味が。
彼女は誰のためでもない・・・俺のために泣いていた。
こんな俺のために泣いてくれる人がいる。
さっきまで不愉快でしかなかった涙が、こんなにも愛しく感じるようになるなんて・・・。
俺って、・・・ずいぶんと単純だな。
操り人形の糸は切れていた。
必然、人形は縛られることはない。しかし、動くことも出来ない。ただ、朽ちるのを待つのみ。
・・・だが、そんな人形自身も気付いていない、切れていない糸があった。
それは―――
―――小指に繋がった赤い糸。
4/
「なぁ、・・・・・・一つきいていいか?」
昼の陽気はどこへやら。吹きすさぶ冷たい風の中、真っ暗になった屋上で誰に言われるまでもなく夜景を眺めていた。
どれくらいそうしていただろう。
ちらり、と腰を並べて座る彼女の横顔を俺は盗み見た。
俺は、いつかと同じ二重の驚きを感じていた。
一つ目は、なんでコイツがこんな所にいるのか。
二つ目は、・・・・・・コイツが驚くほど綺麗になっていた事。
今は泣きはらして、はれぼったい瞼が痛々しいが、こんな横顔の奴にもう、昔みたいにチンチクリンなんて呼べないな。
そんなことを思っていると、目が合った。
さっき殴られ、泣かせ、ボコボコにされた手前、俺はなんだか気まずかった。
しかし、彼女は気まずさなど微塵も感じていないのか、(それともたんに空気が読めないのか)ニコリと笑ったのだ。
その笑顔を真っ向から受けた俺は、総毛立つような感覚に襲われ、それをごまかすために「もう、下りようか」と口にしたのだった。
夜だと言うこともあって、ずいぶんと危なっかしい動きの江那美。
柵からすべり落ちそうになったり、足場を踏み外しそうになったりと、彼女を危機的場面から救うはめになった俺。
彼女が小さな悲鳴を上げるたびに肝が冷え、心臓がドキドキしたが、彼女の腕を咄嗟に引っ張り、小さな体を受け止めた時、それ以上に心臓が早鐘のように鳴った。
何を意識してしまっているんだろう・・・俺。
もう誰もいない校庭を睨み、平常心を取り戻そうとした。
・・・しかし無駄だったようだ。
「えっ?ごめん、もう一回言って」
今、彼女が俺の隣にいて、さりげなく腕を組んでいる。
その事を認識しただけで・・・。
いや、落ち着け俺!これは繋がるというよりも、俺を逃がさないように拘束するといった意味合いのほうが強いのでは?
「だから、一つきいていいかって?」
「あっ、うん、いいよ」
例年よりも、中々冷え込むのが遅い冬。
もっと寒ければいいのに。俺はその時そう思った。
そうだったら、もっと・・・彼女の温もりを強く感じられたのだろう。
今度はキザったらしい考えだこと。
「なんで、俺があそこにいるのがわかった?」
―――天国に一番近い所。
その実、あれは俺だけの屋上に対する呼称であり、江那美には・・・たしか、一度くらいしか言ったことがない気がするのだが・・・・・・。
まさか、それを覚えていたとも考えにくい。
「・・・・・・それは、ね。ごめん。一つ涼時に謝らなくちゃいけないな・・・」
少し恥ずかしそうに顔を伏せる江那美。決心がついたのか、一度頷いてみせた。
「実は、・・・いつか涼時が屋上の事を天国に一番近い所・・・って言ったでしょ?それでその響きが気に入っちゃって・・・ちょうど描いていた絵のタイトルに・・・使っちゃ・・・た」
どんどん小さくなってゆく江那美の言葉尻。
チラリ、とこちらの様子をうかがってくる江那美。
「その・・・勝手につかってごめん。起こってる?」
なんで俺がそんなことでいちいち怒らなくてはいけないのか、それがわからないが・・・。
「で、その絵はどうした?」
しばらくの沈黙の後、リスが砂糖菓子を食べたような顔をして、えっ?と首を傾げた江那美。
「あっあの絵?えと・・・・・・確か・・・そう!」
思い出したのか、花がほころぶような笑みを浮かべ、両手を合わせた。
「天国に一番近い所――その絵でコンテストは優秀賞を貰ったよ」
「・・・す、凄いじゃん」
これには俺も正直に驚いた。本当に凄い。凄いのだが・・・。
「タイトルは覚えていて、賞のことは忘れていたのか?」
「うん、まぁ・・・」と江那美は言葉をにごし、照れくさそうに笑った。
「涼時に内緒でつけたタイトルだし、私は賞とか、その・・・・ね?」
きっとコイツは絵は好きだから、描きたいから描いたのだろう。もともと賞のことなど頭にはなかったんだろう。せっかく描いたからコンテストに出す。
コイツの場合、そういう事なのだろう。
そして、その絵にしっくりくるタイトルが俺の言った「天国に一番近い所」だった。・・・・・・ただ、それだけの事だ。
その絵について江那美と話しているうちに学校が見えなくなり、いつの間にか文具屋の前を通り過ぎていた。
俺たちの脇を車のヘッドライトが、時には冷たい風が通り過ぎていく。
文具屋を過ぎ、風が過ぎ、時が過ぎて線路沿いの道に出た。
だが、そちらには行かなかった。
江那美が突如、俺の腕を引っ張ってすぐ近くの遮断機をわたったからだ。
ドコに行くつもりなのか。江那美の突然の行動に思わず口をひらいた。
「おい、俺の家はコッチじゃないよ」
しかし、口から出たのは想像とは少しニュアンスの違う言葉。
「・・・・・・・・・」
でも、江那美は何も言わないで、俺の腕をつかんで引っ張るだけ。
「・・・おい」
江那美は無言だ。
「おい江那美」
またもや無言。しかし、彼女の指に力がこもる。
「・・・痛ぇよ」
「あっ!ごめん!」
力がこもっていた腕から力が抜ける。
うつむいた江那美。
その、なんとも気まずい空気に、ごまかすように頭をかく。
「・・・俺はどこにも行かねぇよ」
それに彼女は小さく、うんと頷いた。
少し歩調をゆるめ、黙ったまま歩く。
すると、駅から遠ざかるにつれて静かになっていく。
しだいに車の喧騒が落ち着きはじめ、気が付いたらなくなっていた。
街灯が照らす道。民家に挟まれた細い道に入る。
人通りが完全に絶えた。
自然、暗闇や無言の重圧に不安になってくる。
「・・・・なぁ」
「――――ねぇ、凉時」
同時に口が開いた。それに驚いて口ごもる俺。かまわず続ける江那美。
「凉時、私に嘘ついたよね」
あっ?と言葉が唇からこぼれる。予想もしていなかっただけに思考が固まってしまった。
「鍋料理なんて嘘ばっか。本当はろくにご飯も食べてないんでしょ」
そこで俺は合点がいった。
この前の電話の話をしているのだ。
どこか問いつめるような雰囲気を持ち、そのくせただの独り言のように彼女は言う。
小さなため息と一緒に「凉時の嘘つき・・・」と。
吐く息は白く、人通りは皆無。
ここには赤と緑のコントラストはなく、それを意識しただけで、なんだか通りが薄暗いような気がした。
通りに二人。二人だけ。まるで、世界が二人だけになったような気分だ。
二人の世界に足音が響く。
「凉時の嘘つき・・・」
彼女はもう一度言った。
しかし、それは、なぜたろう。
本来なら心を突き刺すはずの言葉は、
「嘘はいつかバレちゃうんだからね」
小さく縮んでしまった俺の心を
「・・・ほんっと凉時は馬鹿なんだから」
優しく抱きしめるかのように、ほぐしていった。
「・・・馬鹿はないだろ、馬鹿は」思わず溢した呟きに、
「だってそうでしょ?」
ね?なんて頷きかけてきやがる江那美。
ドキンとと心臓が脈打って、思わず俺は彼女から顔をそむけた。
ばか、そんな近くで綺麗に笑われたら、思わずうなずき返しそうになるだろうが。
女は化ける。本当だ。
「んっだよ、チンチンクリンのくせして」
「・・・なんか言った?」
「なんでもねぇーよ」
夜空を見上げる白い息を星に吹きかける。
すると、江那美も唇を尖らして真似をした。
空へと昇る白い二つの吐息。
目があって気恥ずかしくて照れ笑い。
吹き抜ける風はつめたくとも、
互いが繋がった体は温かかった。
なぜだろう。楽しくも、嬉しくもないのに。
俺の顔から笑みがこぼれた。
ついでに言うと、ちょっぴり泣きそうだった。
その理由はわからない。感情なんて時にしてそういうものだ。
「ごめんな」
いや、違うか。こんな時は確か・・・。
「ありがと」
だから、きっと。自然と口から出たこの言葉にも、意味などないのだろう。
「どうしたの急に?」
隣の彼女は、こんな俺にも笑いかけてくれる。
俺を嘲笑っているんだ、そのうち俺を裏切るんだ・・・そんな卑屈で矮小な考えは今すぐ、道端にでも捨ててしまおう。
悲観的で臆病者だった俺を外へ連れ出したのは誰だったか。
受動的で皮肉屋だった俺の事を背中をおして励まし続けたのは誰だったか。
排他的で大馬鹿者の俺に拒絶されたのに、罵られたのになお、見放すことなく本気で起こってくれたのは誰だったか。
こんな役たたずでちっぽけな人間が、世間様に迷惑をかけないようにひっそりと消えようとした。
誰もかまわないだろうと思った。
誰も悲しまないだろうと思った。
誰も必要としていないし・・・、死んだって泣いたりする人なんていないだろう。そう思っていた。そう思うことで少しだけ救われていた。
そう、本当にそんなものだって諦めていたさ!
でも、でもここに・・・。
ここに、嫌だって言ってくれた奴がいる。泣いてくれた奴がいる。抱き締めてくれた奴がいる。
それの、なんて大きなことか。手のひらに残ったそれのなんと小さなことか。
気が付けば見失ってしまいそうなほど、小さいのにとても大きくて大切なモノ。
手の中を流れてしまう砂の最後の一握り。とてもとても愛しいもの。
そんな、彼女の存在が、とても大切なものだと気付いた途端・・・
俺の中で、おしとどめていた何かが静かに壊れた。
目頭が熱いと気付いたときにはもう、意地でも顔を下げるわけにはいかなかった。
「・・・もしかして涼時、ないてるの?」
お前だって泣いていただろ?とか、いろんな皮肉や憎まれ口が頭の中に浮かんできたが、全部飲み込んだ。
ちょうど、頬を伝って口の中に入り込んできた涙のように。
小さな人間の中の小さな俺。そんな俺の中の小さな小さなこの性分や考え。
ほんと、矮小すぎる俺の心には、江那美の存在は大きすぎた。
おかげで、これまでの俺の行動や思考が、滑稽でとるに足らないものだったと笑えてくる。
あぁ・・・タイムマシンがあるんだったら、ここ最近の俺を殴りにいきたい。
「・・・いいよ。私はそばにいるから。安心して泣いていいよ」
お前には、こんなにも想ってくれている人がいるんだぞ・・・って言ってやりたかった。
道の途中にあった小さな駐車場。
そこのコンクリの段差に座らされて俺は声をおしころして泣いた。
江那美はすぐ隣に座って、丸まった俺の背中をさすり続けた。
ダサいと分かっていても嗚咽を止めることは出来なかった・・・。
そんな最中、俺の頭はお得意の詩的な回路をつかって悠長なことを考えていた。
苑崎 涼時が斎藤 江那美に救われた事を一言で言い表すと・・・。
奇跡・・・・・・
その言葉の安さに頭の中の俺は苦笑いを浮かべた。
もう少し考える。
そこで、とある人物の一言が頭をよぎった。
魔法・・・か。
その響きはなぜか、こんな二人によく似合ってきるような気がした。
φ
俺は腐っても男だ。
女の手前、ずっと泣いていつわけにもいかず、気合で涙をせき止め、さも平然と腰を上げる。
江那美にもう一度軽く礼を言い、これまでのペースを取り戻そうと一本道を早足で歩き出す。
しかし、本当の所は情けない泣き顔をみられたくないからだった。
下瞼はヒリヒリして痛かった。鼻はつまって息苦しかった。でも、心はなぜだろう・・・憑き物が落ちたかのように清々しかった。
フゥーと一つ息を吐くと、新しい空気を肺いっぱいに吸い込む。
それだけのことがとても大事で、新鮮な行為に感じられた。
小走りで近寄り、ひったくるように俺の腕をつかむと、江那美は静かに話し出した。
実は俺に内緒で独身暮しを始めようと計画していたこと。
今年の夏、物件を詳しく調べるためにこちらにおもむいた事。
その後も、ちょくちょく知り合いの力を借りながらも引越し先を探しに来ていたこと。
春先から通勤することになる仕事場に近くて、そこそこ交通の便がよく、家賃ができるだけ安い・・・そんな所を探すも中々見つからなくて悶々としている時に俺の彼女の話を聞いたこと。
結局、交通の便は諦め、独り暮しには破格な物件を見つけたので、そこに決めたのだということ。
引越しを済まし、独身生活にも慣れてきた頃、お楽しみの俺への報告タイム・・・という訳で電話をかけたのがこの前だったという事らしい。
中々上手に話をきり出せず、どうしようかと考えている時、思わず彼女の事をきてしまったということ。今でもそれは反省しているということ。
その後は俺も知っている今日の事なのだが・・・。
俺はてっきり江那美は、俺が家を出た昼ごろにやって来てすれ違いになったのだと思っていた。
でも彼女の話を聞いているそういうわけではないらしい。
彼女は、俺に電話を一方的にきられた後、気になってしょうがなく、こうなったら直接会って話をしようと、夜中なのにもかかわらず俺の所へ来たらしい。・・・そう風邪でフラフラだった昨日の夜だ。
何度か止めようと思ったらしいが、俺の部屋は電気がついていた事もあり、思い切ってインターホンを押した。
江那美はそれに、心臓がバクバクで死にそうだったと笑ってつけたした。
しかし、インターホンを押してもケータイで電話をしても反応がない事にいぶかしんだ彼女は、思わず玄関ノブを回したという。するとドアに鍵はかかってなくて・・・。おそるおそるドアを開けると玄関先で俺が風邪でぶっ倒れていた、とそういう顛末なわけで。
それこそ本当に驚いたらしい。
いそいで布団をしき、俺を寝かせ、タオルを水道で冷やそうにも水が出ない。しかたなく風呂場の桶とタオルを持って近くの公園に行ったらしい。
次は栄養のあるものを作ってやろうと冷蔵庫をあけるもカラッポ。
もしやと思って部屋中を確認してまわるも、案の定ガスも水道も止まっている。最近料理をした形跡もなし。外食やお弁当でも買っているのかとサイフやゴミ箱も確認するも・・・。
彼女は何も言わなかったが、大層呆れ返ったに違いない。自分の不甲斐なさに俺も自分自身が恥ずかしい。
結局、お金を持ってきていなかった江那美は料理をつくるために徒歩で帰り、おかゆを作り、今度はタクシーに乗って持ってきた。
その後は、ずっと俺の看病だったらしい。
朝まで俺の様子を見守っていた・・・江那美はそういった。
それをきいた時俺は、言葉がなかった。それどころか、さっきようやく落ち着いたところなのにまた涙があふれそうだった。
部屋の寒さは俺自身がよく知っている。いくら電気が通っていても暖房器具が壊れていては使えないのだ。
ガスが止まり、延滞に延滞を重ねた水道もついには止まり、最後の頼みの綱だった電気の代金は払い続けたが、暖房が故障。
そのある意味究極的な部屋で彼女は看病してくれたのだ。
寝苦しかった夜が、突如スゥーと楽になったのはコイツが看病してくれたからかもしれないな、と今更に思った。
そのことには本当に感謝するしかない。
朝からちょっとした用事があった彼女は、一度家に帰り、俺に電話をしたという。
それが今日の昼ごろの電話。
作って置いといたおかゆの事や、今晩は何が食べたいか聞くための電話だったようだ。
しかし、俺はその電話をきった。
そのときは恥ずかしくて素直に電話に出られないのかな、とか彼女は思っていたらしい。
用事を切り上げ、俺の家に戻ってみるも、部屋は蛻の殻。
おかゆに手をつけられたあともなし・・・。
それで急いで電話をしたと言う。
実際、俺は彼女が来ていたことに気付いていなかったし、おかゆがあったなんて思いもしなかった。
だから、仕方がないとは思うが・・・・・・なんて擦れ違いだろう。
きっと江那美は藁にもすがる思いで、俺に電話をしたに違いない。
それが、あの時の焦りの正体。
―――天国に一番近い所。
思いもよらない居場所のヒントに内心困惑した。本気で、東京タワーかもしれない。富士の樹海に行ってしまったのかもしれないと悩んだらしい。
しかし、それで彼女は高校の屋上を選んだ。
それしか選択肢がなかったのだろう。
居るか分からない場所に危険な思いをして、わざわざ赴くのはどんな気分なのだろう。
そして、そこに目的の人がいた時の気分はどんなのだろう。
信じてよかったと安堵するかもしれない。
やっと見つけたぞコイツ・・・!と怒りがこみ上げてくるかもしれない。
その時のことを江那美にきいてみたが、彼女は頬を赤らめて笑うだけ。彼女は何を感じ、どう思ったのだろう。
・・・いや、それも今では意味はないか。あの涙とこの温もりが全ての答えなのだろう。
「ここだよ。私の家」
駅の遮断機をわたって、しばらく歩いたさきに彼女が住む家はあった。
同じ建設会社がデザインをしたのだろうか。同じような形の家が並んでいる。
いわゆる集合住宅という奴だろう。
少なくとも、俺の借家より広そうだし、新しい。
「あまり片付いてないと思うけど、気にしないでね」
照れ笑いを浮かべると、一番端の家の鍵を開けた。
「ただいまー」
いつもそうなのか、誰もいないはずの玄関で小さく言うと、靴箱の上のランプをつけた。
江那美はいそいそと靴を脱ぐと、はぁー男の人をあげるのは緊張するなぁとこぼした。
ぽんっと慣れた手つきで真っ暗な廊下に照明をつけると、奥に行ってなにやら片付け始めた。
取り残された俺は、おずおずと玄関に上がり、江那美の後を追った。
靴箱の上のランプがしっとりとした光を放ち、廊下の壁紙を照らしていた。
幼馴染とはいえ、女性の家。カラフルに色取られていたり、人気キャラクターグッツなどがところ狭しと並べてあるのだろうなと思った。
高校の女友達も俺の彼女の家もそうだったからだ。
高く積み上げられたファッション誌。ハートの形をしたクッション。可愛いと言われるキャラクターグッツが所々にあり、机の上は化粧品がズラリと並んでいる。それが俺がこれまでで培ってきた女性の部屋のイメージだ。
時々例外もいるが、それは部屋がとても汚いという意味だ。
「・・・・・・・・・」
普通、女の家といったら玄関先でも甘ったるい匂いがしそうなのだが、単なる偏見なのだろうか。
肌触りが妙にいい壁紙をなでながら廊下を進むと、彼女はテーブルを出して台ふきでその上を拭いているところだった。
「お邪魔します・・・」
おそらくリビングにあたる部屋に入ったとき、俺は少なからず圧倒された。
「ご、ごめん。作業の途中だったんだ。すぐ片付けるから適当にくつろいで」
そこは、彼女のアトリエだった。
「今でも絵を描いていたのか」俺は立ち尽くしたままで言った。
「描いてるよ。・・・だって」
彼女は壁にキャンパスをたてかけると、コチラを振り向いて言った。
「涼時が応援してくれたから」
ふと、鼻先を油絵の具の匂いがかすめる。それにまぎれて彼女のにおいがしたような気がした。
「たぶん、今でも絵を描いていられるのは涼時がいたからだよ」
立ち尽くす俺の手を優しく引いて、彼女はテーブルの前までいく。
そして俺の肩を後ろからつかむと、まるでおんぶでもねだるかのように体重をかけてきた。
何をしているのか意味が分からなかったが、彼女がひざを折っているところを見ると、座って欲しいらしい。
後ろからかかる力が強くなり、耐え切れずに座る。背後の彼女も座ったようだ。
彼女は俺の肩をつかんだままで、そのままトンと背中に額をあてたのが服越しではあったがわかった。
彼女の突然の行動に内心、困惑する。
絵那美は俺の背中に額をあて肩に手をおいたまま黙っている。
俺は、そんな彼女の様子は想像できたが、表情はわからなかった。
彼女は今、どんな表情を浮かべているのだろうか。
無論、首をひねっても彼女の肩までしか見えず、顔を見ることはかなわなかった。
諦めて、彼女のリビングを観察して時間をつぶすことにする。
あるのは彼女が座るのであろうイスと壁に立てかけられたキャンバス、イーゼル。そしてパレットやチューブが鉢植えを置くような小さな台の上に並べてあった。
キッチンはカウンターでリビングとわけられていて、カウンターの上には水張りのバケツがあり、その中に何本もの筆が入っていた。
赤や緑、さまざまな色で汚れた筆だ。
俺にはその汚れた筆が、一つの作品のように見えた。
この部屋にしてもそうだ。
台の上に並べられたチューブ。パレットにとられた色。マーブル模様になったイスの足。
どれもが綺麗だった。
この風景を切り抜くことが出来るのなら、俺は額縁に入れて飾るだろう。
質素で、女らしさなど微塵も感じられないが、白を基調とした内装が、そのまま彼女のキャンバスのようで、心のようで、なんともまぁ江那美らしかった。
「ねぇ、涼時・・・」
彼女の小さな声が聞こえた。
それに俺は、出来るだけ落ち着いた声で、なんだ?と返した。
「本当のこと・・・言っていい?」
それは何かにおびえる小さな子供のような声だった。
俺は無言で頷いて、彼女の小さな声に耳を傾けた。
「私はね、涼時に彼女をいるってきいた時、すごく驚いた。彼女と別れたってきいた時も凄く驚いた。・・・でも、本当はね。本当は少しだけホッとしたし嬉しかったんだ」
小さな声は、彼女の懺悔の声だった。
それを聞いた俺は―――。
「あはは。私って嘘つけないから。こんな気持ちを抱えて涼時と一緒にいられないの。私って酷いよね。彼女に悪いことをしたあげく、二人が別れて嬉しかったんだよ?ねぇ、見損なったでしょ」
乾ききった笑声。彼女には縁がないと思っていた笑い方だ。
俺は―――自分が怒ると思っていた。人の過去を、古傷をほりおこされ、今度は嬉しかったと言われたのだ。ものすごい速さで彼女を力のかぎりで突き飛ばし、鬼のような形相で彼女を罵倒し、汚い言葉で心をズタズタにし、暴力で体をボロボロにする。そう思っていた。
俺はそんな凶暴性を確かに持っていた。だが・・・
そんなものはついに一ミリも出てこなかった。この前は腹が煮えくり返るような思いだったというのに。
不思議と穏やかでいられた。
江那美の言葉が屈折もせず、歪みもせず、俺の心にトンッと背中をおすような衝撃を与える。
それが心にじんわりと染みていくのを感じて、思わず瞼を閉じた。
―――たった一つのことを今更理解した。
「・・・江那美、お前――俺のことが好きなのか?」
彼女がハッと息をのんだのが分かった。両肩に置かれていた手が首にまでのびて、軽く絞められる。
「・・・・・・馬鹿。好きでもなくて、こんな事涼時にしてあげるわけないでしょ」
彼女らしくないちょっとした見栄っ張りで意地っ張りな言葉。
「・・・好きだよ。そりゃ、もう大好き。・・・気付かなかったなんて言ったら怒るから」
そうか・・・。それなら・・・。
「じゃぁ、仕方がないな」
そういって、幸せな溜息を吐いた。
きっと、俺の怒りや不安は彼女が吸い取ってしまったんだ。
そう、多分・・・背中にあてられた彼女のおでこあたりから。
あんなに心を蝕んでいた苦しみはいつしかどこかにいっていた。
彼女が帰り道の途中に捨てたのか、半分抱え込んでくれたのか、俺には判別できないけど。
しかし、
それが彼女のおかげなのは明白で、事実だ。
「涼時、溜息はだめなんだよ」
首に絡みつく彼女の細い腕。それが与えてくれる少しの息苦しさ。
その甘酸っぱい感覚に幸福を感じてしまう俺は・・・マゾなんだろうか?
「あぁ、そうだったな」
しかし、俺はもう一度溜息を吐きたかった。
幸せだと言う代わりに、どうしても吐いてしまいたかった。
φ
彼女はしばらくそうしていた。
しばらくそうした上で、彼女はゆっくりと俺から手を離すと、小走りでキッチンに逃げ込んだ。
こちらを一度も振り向かなかったため、相変わらず表情は分からない。
でも、俺はカウンターの向こう側に消えた彼女の背中を目で追っていた。
鍋に日をかけ、おたまで何かをかきまぜている。
「ちょっと意外だったな」
キッチンから彼女はこちらに聞こえるように少し大きな声で言った。
「何が?」
「涼時、怒ると思ってた」
ちょっとした沈黙があった。
「本当はな、・・・江那美」
「・・・・・・」
「お前が家に押しかけた時にはもう別れていたんだ」
カシャーーーンッ!
キッチンでおたまが盛大に跳ねる音がして、俺は少し驚いた。
「えっ・・・私が押しかけたから別れたんじゃないの?」
「・・・・・・・・」
「じゃ、私の・・・・・・勘違い?」
それに黙って頷く俺。
とかんに顔を真っ赤になる江那美。
“うわ、私の早とちり?勘違い?ハズッカッコわる!“とかブツブツ呟いている。
「あぁーナシナシ!別に気にするな私!・・・はい、おかゆ!残りだけどちゃんと食べてね」
鍋とレンゲを前に俺は苦笑するしかなかった。
「久しぶりのご飯でしょ?まずは消化のいいおかゆ!病み上がりだからしっかり食べて元気になること」
美味しそうな白かゆが鍋の中で湯気をたてている。
本当に美味しそうだ。でも、なんだか手がつけられないでいると。
「ふー、ふー。あーん」
左手をそえてレンゲを差し出してくる江那美。
「ばっ!そこまでしてもらう義理はねぇーよ!」
と、俺は彼女からレンゲを奪い取り、口に運んだ。
そこで、俺は固まった。
「どうしたの涼時?・・・もしかして口に合わなかった?」
「・・・お前、塩を入れすぎなんだよ・・・」
蚊が鳴くような声で、そんな情けないことしか言えなかった。
おかゆをすくい、口に運ぶ。
少ししょっぱかった。きっとそのせいだ。くそ、鼻の奥がツーンとしてきた。
「本当、お前塩を入れすぎなんだよ。あーしょっぱすぎて涙が出るぜ」
温かかった。
美味しかった。
腹に満ちてゆく感覚がいとおしかった。
「涼時・・・・・・」
泣きながらおかゆをむさぼる俺を江那美は優しい目をして見ていた。
ついでに言うと、ちょっと笑っていた。
「泣いてるよ?」
「人間はなぁ、しょっぱいと涙が出るんだ!」
「そんなにいそいで食べると舌、やけどするよ?」
「うっせ、知った事か!」
5/
腹が満たされる幸福感を感じながらも、今更ながら俺は緊張していた。
頭に栄養がまわり、思考がまわるようになったからかもしれない。部屋の所々に目が行く。
女友達の家で手作り料理をご馳走になったことは何度かあった。
下心がなかったわけじゃない。
いや、あったから妙にドキドキしたのだ。
期待と高揚。部屋の隅にあるベットを見てはよからぬ妄想を膨らました。
しかし。
しかし、今回はそんなものは微塵もない。
俺にとって江那美は女である前に幼馴染だった。チンチクリンで、全力・ノーコン・ストライカー江那美なのだ。
ノーコンの癖して全力で球を投げ、その魔球にやられていった者たちは数知れず。そんな伝説を作った女が。
そんな女が、今年の夏から変わった。
気付くと彼女は立派な女性になっていた。
どこがどう変わって、どこが可愛くなったとか綺麗になったとか、そんなこと俺には説明できないが・・・。とにかく。
俺は、この重い沈黙をどうにかしないといけなかった。
おかゆが入っていた鍋を片付けた彼女は、テーブルをはさんで向かい側に座っていた。
・・・疲れていたのだろう。コクンッコクンッと船をこいでいる。
できれば、そのまま寝かせてやりたかった。
しかし、彼女は何度も首をふって起きていようとするのだ。
沈黙は自然と生まれる。
さて、どうしたものかと、うとうとする彼女を尻目に部屋を見ましてみる。
見れば見るほど変わっているというか、不思議というか・・・。
正直、居心地が悪かった。学校の美術館とはまた違った感じ。
カウンターとは反対側の壁にキャンバスが立てかけられている。大小三つのイーゼルが折り重なって置いてあった。
江那美の背後にはドアがあって、そちらにも部屋があるようだ。
そこで、初めて気づいたかのように俺の背後の壁を見た。
四角い縁に、青い針をした時計と、一枚の絵がかけてあった。
画用紙一枚分くらいの大きさの額縁に入った一回り小さな絵。
クレヨンで何を描こうとしたのか判別できない絵。
線はグチャグチャで、色は混ざって汚い。子どもの落書きのようで、周囲の絵と比べても部屋の中でだいぶ浮いてしまっていた。
・・・でも、その絵には不思議な引力めいたものを感じた。
なんだアイツ。まだこんなもの大事にとってたのか。
「それねぇ、こっちに来る時、持って来ちゃった」
江那美がテーブルにつっぷしたまま眠そうに目をこすって笑った。
「いつだったか、これ描いたの」
「ずいぶん前だよね。子どもの頃私のおばさんの家で描いた絵だもんね」
田舎に住む柔和なおばあちゃんの顔を思い出す。
「そういえば、どうして子どもの頃の絵なんて飾ってるんだ?」
「んーどうしてかな。そうだなぁ」
彼女は立ち上がってキッチンに向かうと、しばらくしてトレーにコーヒーを並べて戻ってきた。
「たぶんね。今の自分は昔の自分の延長上にいるじゃない。だから、昔の自分に胸をはりたいからじゃないかな」
眠そうに目をしばしばしている江那美にかわって、コーヒーに砂糖を入れる。
「だから、子供の頃の絵を飾るのか・・・。あっミルクはいいよ」
コーヒーに口をつけ、息を吐く。一息ってヤツだ。
「絵を描き続けるのがお前の夢だもんな」
「・・・えへへ。そうやって、あらためて夢って言われると、なんか恥ずかしいね。ところで、涼時はどうなの?」
「えっ?」
カップの縁に唇をつけたまま、江那美が上目遣いでこちらを見る。
「だから、涼時の夢は?叶った・・・わけないか。その様子じゃ」
夢・・・・・・ね。ちょっとした嘲笑を浮かべた。
「夢なんか忘れちゃったよ」
そう言って、俺はゴロリと寝ころんだ。
天井と、逆様のクレヨンの落書きが見えた。
「現実を追うので精一杯で、夢なんか追いかけている暇なんてなかったよ。だから忘れた」
夢を語れる彼女がいる。
しかし、俺にはそれが出来ない。
それが少しだけ淋しかった。
また静かになった。
逆様の時計が秒針を鳴らして、時を刻み続ける。
よどみのない単調な音に耳をすましていると、睡魔が襲ってきた。
うとうとと気持ちのよいまどろみの中をさまよっていると・・・・・・。
「――ていっ」
頭の上にバサリと何かがふってきて目が覚めた。
「・・・なんだコレ」
いそいで起き上がると、頭にのっていたのは子供の学習ノート。
パラパラとページをめくってみると、それはどうやら江那美の日記のようだった。
「ちょっと、探すのに時間かかったよ。ほら、そこ。そのページの下」
江那が指さした所に目を通す。
それを数秒だけ見て・・・・・・めまいがした。
何かの冗談だと思いたかった。コイツはこんなものまで取っているのか。
「懐かしいでしょー。そこに本人の字で、本人の将来の夢が何か書いてあるよ」
いたずらな笑みを浮かべる幼馴染。相変わらず底が見えないというか、計り知れないというか・・・。
江那美が指さす先には、汚い字でこう書いてあった。
〈おれは、先生みたいな先生になりたい〉
φ
『先生!オレ、大きくなったら先生みたいな優しい先生になる!』
『あら、どうして?サッカー選手になるんじゃなかったの?』
『うん、サッカー選手はもういいんだ』
『またどうして、先生になりたいの?』
『・・・あのさ、・・・先生ってかっこいいじゃん』
『かっこいい?』
『うん、かっこいい。だって、えなみちゃんが泣いた時だって、オレが 怪我したときだって、先生はすぐに来てくれたもん。それで「痛くないよ」って撫でてくれた』
『あぁ、うん。それで?』
『サッカー選手より絶対、先生のほうがかっこいい』
『・・・ふふ、そうかー。それなら、もっと勉強を頑張らないとね?』
『うっ!』
『特に算数。かけ算が出来てないのは、もう貴方だけよ?』
『・・・じゃ、じゃぁ頑張る!頑張るから、見ててね先生!』
『はいはい』
φ
「・・・・・・」
懐かしいというか、青臭い小学校の頃の記憶。
“先生はかっこいい”と本気で思っていた昔の俺。
今となっては、教師はただウザいだけの存在だ。
熱意など失い、ただ黙々と黒板に文字を書く大人。
・・・・・・教師が生徒を慰めたり、怪我の治療をするのは、それも一つの仕事だからだ。
・・・・・・だけど。
あのときの先生の笑顔、綺麗だったよな・・・。
「夢、思い出した?」
思い出した。思い出すとまぁ、なんて恥ずかしい夢か。
ノートの汚い文字を軽く指でなぞり、江那美に返した。
カップの中をのぞき込むと、俺と目があった。
「なぁ・・・江那美」
コーヒーのおかわりをつぎながら、彼女は「なに?」と優しい声で答える。
「昔の俺は、今の苑咲 涼時を見たらどう思うだろう」
「怒るんじゃない?」
またしても笑いながら答えた。
あからさまに俺の様子を見て楽しんでいる。
そんな楽しそうな江那美を俺は難しい顔をして見る。
「夢ってなんだろう・・・」
すると江那美も一緒に難しい顔をした。
「私の考えだけど・・・いいかな?」
それに俺は頷いた。
「例え話になるけど・・・よく、宇宙人を見た!とか言う人に『現実を見ろ』っていう人がいるじゃない?私はアレ、違うと思うの。
宇宙人を見た人にとって、それが勘違いでも見間違いでも、それは現実だから、ようはそれを認識しろって意味になるじゃない?
でも実際には皆はそんな意味じゃなくて、もっと単純にありえないって意味で言うと思うの。
おかしいと思わない?
だってそれは、相手に自分で言う現実を押しつけてることだもん。
そして、夢を持つ人がいて『現実を見ろ』と言われて諦めた人がいる。
でも、中には諦めないで何度も挫折を味わって、ようやく夢が叶った人がいる。そんな人って『夢が現実になった』って言うじゃない。
それでも、世界には天才がいて、その夢をすんなりと現実にしてしまう人もいる・・・。そんな人は『夢が叶った』とか『現実になった』て言い方はしないでしょ。「なるべくしてなった」とかね。それは、その人にとっての夢は、夢じゃなくて現実だったのよ。自分の延長上にある現実。
だからきっと、皆が言う夢と言うものは、もうすでに心のどこかで諦めが付いたまたは、少しでも失敗する覚悟ができてしまっている目標。いわば、憧れの抜け殻みたいなものじゃないかな。
『夢は見るものじゃなくて、叶えるもの』って素敵な言葉があるけど、私流に言うなら・・・・・・本当に叶えたいものは、自分の先にある。自分の延長上で私を待ってくれているものだと思うの。
もちろん、そんなに身構えなくても、棚からなんとやらみたいに夢が叶う人もいるよ。だからこれは、私を私でいたらしめる夢の解釈。忘れても問題のないことだよ」
と、最後は軽く終わらせて、のどかわいたーとコーヒーをすごいいきよいで飲んだ。
俺はというと、江那美の話によくわからない熱いものを感じていた。
例えるならエンジンに火を入れたかのように衝撃。
頭は総毛立ち、心臓はドクドクと力強く脈打っていた。
江那美の言葉に感銘を受けた俺はなぜだろう。
笑いながら、口を開いた。
「江那美、お前って魔法使いか?」
たった一人の男を勇気づけた小さな魔法使いは、
「うん、その通り!」
魅力的な笑みを浮かべた。
6/
実際、本当に長い道のりだった。
幼馴染に夢を思い出され、勇気づけられた典型的ダメ男は、あらゆる事から開き直り、目の前の事に集中する事にした。
昔の元カノの経緯を幼馴染に話した所、彼女はひとしきり笑ったところで「ダメ男」と俺を罵りやがった。
今思えば、俺は本当に元カノが好きだったのかと思う時がある。
ただ俺は、俺を認めてくれる人が欲しかっただけなのではと常々思うのだ。
まぁ、そんなこと、今はどうでもいい話だ。
まず俺は、目標の先生になるために学校に入学することにした。
これまで未収入だった俺からポッと受験料が出るわけがない。
親に頭を下げ、殴られようが蹴られようが、何度も家に頭を下げに行った。お前にはプライドはないのかと、頭を下げ続ける俺に父が言ったことがあったが、目標と比べれば俺のプライドなんか本当に小さなものだった。
そして、ついには親も認めてくれた。父も母も悪い人ではなかった。悪いのはいつでも俺だったのだ。
親から借りたお金でなんとかやりくりし、時には江那美の力も借りながら、狂ったように働いた。勉強もした。語り尽くせないほどの苦労もあったし、ネタが尽きないほどの笑い話もあった。
そしてそんな努力のおかげか・・・
なんと、ギリギリながらも志望校に合格した!
その後も気を抜くことなくカリキュラムを決め、自分にあった資格をとった。
俺の学校での二年間は、江那美にとってはデビューまでのお膳立てだった。
メキメキと力をつけてゆく彼女を尻目に俺も少しずつ努力を重ねた。
まぁ、それでついにと言うか、やっとと言うか・・・。
「俺はこうして先生をやってるわけだ」
「先生、話が長いよ」
「ほんと、ほんと」
近くの高校からちょっと歩いた所にある公園。そこで俺は我がクラスの生徒につかまってしまった。
まぁ、俺も暇だったので、話につきあっていると、俺がどうして先生になったのかという話になったのだ。
長いーとか、先生の黒歴史とかブーブー口にするわりに生徒もなんだかんだで興味深そうに話を聞いてくれた。最近気づいたのだが、職員は良い生徒に出会うか、生徒の良い所を引き出すかなのだ。
コチラが輝いていれば、生徒も輝き出す。
と、目の前でペットボトルのお茶を飲み終わった生徒が、隣の生徒の袖を引っ張った。
「・・・おい、・・・あれ」
後半なんて言っているか聞き取れなかったが、俺の後ろを三人そろって見ている。
・・・・・・なんだろうか?
「あっ、俺そろそろ行かなきゃ。ほら、行くぞホタル」
「えっ、あっ、うん!じゃーね先生」
「ばいばい先生―、またなんか見たいDVDがあったら言ってね」
にこやかな笑みを浮かべて歩き出す三人。
その、それぞれの背中に声をかける。
「ケイ、明日の宿題忘れるなよ?ホタルもだぞ。あーユキはあまり変な映画をみすぎるなよ?」
それぞれが、様々な反応をしめす生徒達。それを見て少し温かい気持ちになったその時だ。
「だーれだ?」
視界が真っ暗になった。
ひんやり冷たくて、柔らかい手。
夏の太陽の匂いに混じって、あの部屋の匂いがした。
「江那美」
「大正解!」
ぱっと手を離して、ベンチに座る俺の隣に立つ彼女。
「生徒?」
さっきの三人組のことだろう。
「ふふ、気をつかわせちゃったのかなーなんて」
三人の変な笑みはそういうことか・・・・。
「・・・・・・行くか」
「うん」
いつかとは違う夏の景色。
おなじみの通りを二人で歩く。
「こうして二人で並んで歩くと変な気分だよね」
「なんで?」
「だって今や涼時は高校教師で私はデザイナーになってんだよ?」
「まぁ・・・、昔では考えられないよな。・・・あっ!アレってお前が担当した広告じゃ――」
「見ちゃダメ!」
自分が担当した広告を必死に俺にみせまいとする彼女。
しかし、悲しいかな。身長の関係で無駄に終わる。
最近、彼女の絵を街で見るようになった。それは優しくほほえむ天使を使った病院の広告だったり、どこかのお祭りの広告だったり・・・と様々だ。
「またお祭りに行こうね」
わたアメを美味しそうに食べる女の子の絵を眺めながら彼女は呟いた。
「・・・アメぐらいだったらいくらでも勝ってやるよ」
「ホント!やったー!」
子供みたいにはしゃぐ彼女。
ティッシュ配りの人と衝突しそうになってあわててよける江那美。
なにやってんだか、と笑いそうになった時。
「―――ユメが叶ってよかったですね」
通り抜けティッシュ配りがそんなことを言った気がした。
「・・・・・・えっ?」
振り返るも、人込みが流れていくだけで何も見えなかった。しかし、俺はしばらくその後ろ姿を探し続けた。
どうしたの?と立ち止まる俺の腕をつかむ江那美。
「いや、なんでもないんだ。ただ、ちょっと・・・」
「ちょっと・・・何?」
しばし、黒い少女の後ろ姿を思い描くと、
「いや、いいんだ」
夢の住人の話は彼女には秘密にしておくことにした。
φ
「大丈夫か?変な所ないか?」
「大丈夫、大丈夫。ほら、行きなよ」
シャツの皺を気にする俺。ネクタイだって、何度確認したかわからない。
この扉の向こうにはあの人がいる。
・・・柄にもなく緊張しているじゃん。などと自分を自嘲するが、変わらず。
いるまでもそわそわして落ち着かない俺に、江那美は・・・。
「大丈夫だって。今の涼時だったら大丈夫。ね?」
軽く背中をたたいた。
「・・・うし。気合いを入れるぜ」
そう言って深呼吸し、扉をノックした。
「はーい」と女性の声が聞こえた。その、あまりにも懐かしい声音に、何かが胸からあふれそうになる。
意を決して扉を開ける。
「お久しぶりです」
かれこれ十何年ぶりだろう。覚えてくれているだろうか。そんな想いと共に、窓辺の女性を瞳にうつす。
驚きの表情はすぐに柔和なものになり、それにしたがって俺自身の緊張もとけてしまい、
「お元気でしたか、先生」
かつての自分が憧れた人に、俺は心の底から笑みを浮かべる事ができた。
-fin-